4/2 その3
- 2011/04/13
■いわき日記。墓参りに行った。
■まず父方の方。いわき中央インターのほど近く、好間というところにあるお墓。行ってみたら墓石があっちにもこっちにもひっくりかえっていた。これは大変だと思って我が先祖の墓を見たらびくともしてない!何故?と父母と笑いながら線香をあげる。
■続いて母方の墓参りに。こちらも我が先祖はひっくり返ってなかった。何故?手を合わせる。三人で何年か前に死んだおじいちゃんがこの震災を体験していたらどうだったかなどと話す。今は誰も住んでいない自転車屋(死んだおじいちゃんの店)を見に行くと、まずは液状化で地面が沈んでいる。水は出ない。古い物置が30度倒れている。横から見ると平行四辺形!!すごい。家の中は古いということもあるんだけどあちこち歪んでいて、表のコンクリ部分にもひびが何本も入っていた。父と写真を撮る。その時に父の携帯がなった。緊急地震速報だった。父が「家から離れろ」と私と母を誘導する。たしかに今すごく大きな地震が来たらこの家はつぶれちゃうかもしれないし、オンボロ物置は30度から60度まで行ってしまう。っていうかさすがに倒れるだろ。相当危ない。何秒後かに揺れは来たが、そんなに大きくないように感じた。外だったからか。結局震度4だった。私はビビリなので自分のiphoneに「緊急地震速報」のアプリを入れていない。あの音が嫌なのだ。不安をあおるというか・・・。いや、きっとほんの少し先に知るというのは大事なことなのではあるが、心臓に悪いというか。
■母方の実家はいわき市泉町。そこから自分たちの家まで、小名浜を経由して帰る。小名浜は津波に襲われた漁港だ。
■海の近くにはまず大きな大きなコークスの山があり、そこはとある小名浜の工場なのだが、液状化によって山の麓には水が溜まっていた。もしかすると海水かもしれない。そこから港まで、道はひびが入り、道の両サイドにはゴミなのか流木なのか散乱している。途中から信号が消えていて、まだ電気が復旧していないのだと思った。小さな店のような建物が見えて来てそこは小名浜港近くの魚屋で、その辺りから街の様子は明らかに大きく変わっていた。主に小名浜の魚を売っている「いわき・ら・ら・ミュウ」という名の大きなショッピングセンターも被害を受けていた。行ったことのある店がほとんどひしゃげている。車の助手席に乗っていた母も絶句していた。船が座礁し、道にひっくり返っている。ゴミが散乱している。まるであの日から時間が止まっているようだった。
■高台にのぼり、また海岸沿いへ。そこからは住宅地で、被害がひどかった。豊間という地区だ。道はかろうじて車が通れる程に整備されている。しかし車の窓から見える景色は想像を絶するものだった。何度も何度も通ったことのある道なはずなのに、ここがどこなのか、何があったのかわからない。4階建てくらいのマンションが真ん中から折れている。倒壊した家の上に立ち、何かを探している人、引っぱりあげている人。店中の棚などがなくなったままただ外観だけ残ったファミリーマート。かろうじて立っている家に書かれた×印。背中の丸まったおじいさんが家族だろうか男性に手を引かれその×印の家から出て来た。避難所から来て、何かをさがしていたのかもしれない。そして道の終わりに半壊したセブンイレブンがあった。ここから少し内陸に入り、道の反対側、内陸側は何事もなかったのように家が建ち、店がある。海側を見れば、景色の色が全く違う。
■私たちは家に帰った。自分たちの家が海から800mほどしか離れていないのに津波の被害を免れたということが信じられなかった。なんというか、今まで見て来た風景が本当ならば何故うちはいまここにあるのかわからなくなってしまったのだ。しかし父も母もここにいて、家はここにある。奇跡だと思った。三人で母の手料理を食べながらビールを飲んだ。幸せだと感じた。どうでもいい話をした。政治の話や震災の話ももちろんした。笑ったり泣いたり忙しかったが、とにかく奇跡の上にある幸せだった。その夜私はなかなか眠れず、それは興奮もしていたからだけど、余震が何度もあったからだ。夜中の余震は恐い。しーんとした家が鳴り、背中で震動を大きく感じた。早く朝になればいいのになと思った。
4/2 その2
- 2011/04/11
■いわき日記。買物の途中父と海沿いの道を走りました。小名浜から平まで、通れないところもあり、通行止めだったり、通るのに躊躇したりで、しかしそれでも目に飛び込んで来る光景はショックの連続でした。海岸にはパソコンが何台も転がっており、車や船は逆さま。テレビの中で見た光景が目の前にありました。
■家に帰り、そして水の出ない時間を三人で過ごし、一階の居間に布団を敷いて三人で寝ました。ときたま起こる余震が怖かった。地鳴りのようなものを最初に感じ、その後揺れるのですが、その地鳴りが何とも不安な気持ちにさせるのです。ましてやここは海から800mの場所で、また大地震が来て津波が来たらどうしようかと一瞬考えたりしました。
■2日目、朝早く目が覚めて、父と掃除をしている最中に水道工事をしてくださる方々がきて何やらいろいろ始めました。どうやら家の下にめぐっている細い水道管が地震でどれも壊れているとのことで、朝からお昼過ぎまでずっと工事を続けてくれ、ようやく水が出た時には感動したと同時に、ありがたくて仕方なかった。ライフラインで一番重要なのは水なんだなということも再認識。
■そして私たち三人は線香を持って墓参りに出掛けました。
つづく
4/2 その1
- 2011/04/06
■両親といわき市に行ってきました。
■まず常磐道がボコボコでした。道はすいていて、風景も特に今までと変わらず、いつもの帰省だと錯覚するのですが、道の段差のたびに車が浮き上がり、その度に驚きました。いわき中央インターについて、家までの道を通り、その間屋根が落ちていたり道路にひびが入っていたりと地震の大きさを感じる風景ではありましたが、車中まだまだ私たちはくだらない話をすることができました。
■家の前で道が割れて水が溢れていました。嫌な予感がしたのですが、やはり水道管が破裂していてうちに水が届いていない状態です。この地区に水が出たのが4月1日、前日から水が溢れつづけていたことになります。実家の隣の家や後ろの家は避難していて無人のため、誰も気がつかないままずっと溢れていたんだと思います。すぐに水道局に電話をして直しに来てくれたのですが、そこから4時間工事してもらっても水は出ません。本管の漏水は直ってもうちの敷地内の水道管が何カ所も壊れているとのことで、その時点で夜の10時。私たちはあきらめました。近所の水が出るところから水を汲み、バケツをトイレに置きました。
■その4時間の間に私と父は買物に出掛けました。つづく。
3/25
- 2011/03/25
■この現在を引き受ける勇気を持とうと考えています。
■私たちが享受した「明るい東京」はこれから少しずつ変化して行くだろう。「暗い東京」「不便な東京」になるかもしれない。経済は縮小するかもしれない。それを引き受けなければならないところにいよいよ来たんじゃないかなって思っています。静かに祈る為に、自戒を込めて、私はそれを引き受けようと思う。そして福島県が本当の意味で復興するまであと何年かかるかわからないという事実を少しずつ受け入れ、ゆっくりと共に再生していく根気を持とうと思います。
■今はただ、自分の実家が恋しいです。海も土も訛りも風も魚も野菜も静かな時間も。そう思う私はやっぱり自分が頑張らなければいけない。いいこと言えない、人を励ませない、迷うならばとことん考えつづけなければいけない。
■書いては消し書いては消し、ですが残った言葉だけでもここに載せて行こうと思います。読んで下さっている皆さんありがとう。
3/22
- 2011/03/24
■いわきとか仙台とか早く行きたいな。そんでままどおるとか萩の月とか食べたいです(どっちも最高だよ)。とりあえず今年は友人のイガリくん(山形チェリーズ所属)と私(いわきハワイアンズ所属)仙台観光に行こうと思っています。
■私は35歳。あと生きてもどのくらいかわからないけど、お水はしばらく買いません。お水は妊婦の方や赤ちゃんのいる方に。子どもは未来です。希望です。今回それが身にしみてわかった。子どもを育てる責任があるよ、大人には。でしょう?だったらおばちゃん買い占めなさんな。それは未来への意志ですよ。福島の野菜だって食べますよ。牛乳ないなら豆乳で。パンがないなら作ります。それで問題ありません。どうせならば変わって行くことを恐れないように後悔のないように生きよう、生きてみたいと漫然と思っています。震災前には戻れないのだから。もう未来しかないのだから。胸をはって変わって行こう!
■これからの未来、よくなっていきますように。言葉にすると陳腐ですが、祈ります。
※
チェーホフ「三人姉妹」が読みたい。無性に。本を読もう。がっつり読もう。紙を舐める程読むぞ。読みたいんだ。読ませてくれよ。お願いだよ。ってのはどうでもいいんだけど、何か深く勉強したいなあ。料理も勉強したい。あ、そうだ!おとといは地震によってストップしてたなんとなくヘルシーなお菓子づくり決行しましたよう。
3/21
- 2011/03/22
■日々、テレビでネットでこんなにも福島県のことが。
■ツイッターで福島民放(@FKSminpo )をフォローしている。東京でこんなに頻繁に福島の情報を得るということが今までなかったからそのこと自体にまず驚いている。福島に帰省した時の「マルトがさあ」「鹿島街道のさあ」「小名浜のさあ」「薄磯がさあ」「ヨークベニマルがさあ」「高久小学校がさあ」という単語は日常だ。しかし東京でその単語は非日常だった。地震の日までは。
■私は今福島/東北の情報とともに生きている。ライフラインはまだ復旧しません。不安に震える人も寒さに凍える人もいるだろう。ただただ祈ることしかできません。
■いろんなことを考えてはまた消えて行き、ただ一つ、長い戦いになることはわかりました。そして途方もなく長い時間祈り続けることが必要なのだと。そのためにどのように自分が変わっていかねばならないのかを前向きに圧倒的に前向きに考えたいところです。そしてこれは非常に重要なことなんですが、この場では自分の言葉でなるべく書くように努力します。他人の言葉を使わない。自分の肉体で書く。それが本当に大切なんです。きっと。/ああ、それにしてもちょっと疲れてるかな。メンタル弱いからなあ。しっかりしなくちゃな。マッサージ行こうかなあ!!
3月11日によせて
- 2011/03/14
■3月11日の地震と津波で実家が被災しました。福島県いわき市下高久という場所です。いわき市だけではなく福島県の浜通り、宮城県、岩手県が大きな被害。被害という言葉では足りない。
■私が育った街、宮城県仙台市若林区。いわき市。映画「パンドラの匣」でお世話になった宮城県南三陸町。あの風景もあのホテルもあのお店もと思うと胸が苦しくなります。テレビで私の思い出の場所が消えてしまったことを知り、何というか、自分の身体が動かなくなりました。関節が痛み、頭がきしみました。私が動けないとか、意味わかんないと思いつつ、家族のことを考えていると、原発のことを考えているともう動けない。情けないです。皆がツイッターでいろいろなことを言っていてどれももっともだと思ったけれど、そこに何かを書き込む程の力もなかった。
■しかし私は、私たちは前を向かねばいけないということもわかっている。身体がそう言っているのがわかります。被災した父母は無事でした。家の一歩手前まで津波が押し寄せ、家の前の畑は液状化現象で車が沈んでしまったそうです。しかし父は「キュウリのキュウちゃんが食べたい」とか言っています。すごいっていうかさ、何故そんなものが食べたいんでしょうか。でも、やっぱりこうなったら父にキュウリのキュウちゃんを腹一杯食べてもらいたい。というか、家族の命が失われたかもしれないという時間の孤独を知り、私は初めてキュウリのキュウちゃんの大切さを身体で理解したように思うのです。何言ってんだかという感じですね。
■いわき市には劇場があります。アリオス。いつかその舞台に立ってみたいなあと思っていたけど、この震災で私ができることを考えたとき、やはり「演劇」ではないかと思い、もし可能になったらそこで朗読会や舞台ができないだろうかと考えました。もちろん落ち着いて、そんなことが考えられるようになり、アリオスの方が話を聞いて下さったらですが。家族や親戚、街の人、市の人、病院に入院している人、おじいちゃん、おばあちゃん、子ども、私の家族を守ってくれた人、街、家族、いろんなものが輪になって生きて行くんだと、初めて、本当に初めて身を以て感じています。私が(自分で気がつかない程に)大切にしているものが消えてしまったことへの諦めと希望。いわき市の方々が、東北の皆さんがどんなことがあってもこれから生きて行くという力。思ったことがうまく書けているかどうかわかりませんが、私は今神奈川にいて、家族とは土地なのではないかと考えています。土地に育てられ、土地に愛し、ここまで生きて来た。これから何を返すことができるだろう。
■亡くなったたくさんの皆さんのご冥福をお祈りします。なじみ深い訛りで話しているであろう被災者の皆様どうかどうか頑張って下さい。心から祈っております。私もまた普通の生活を受け入れて、何が被災者の皆さんに有効な行動になるのか考えて自分のまた新しい時間を作って行きたいと思います。
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