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Posts Tagged 福島

チケットは

  • 2011/08/19

「前向き!タイモン」→ご予約はaplacetodie@hotmail.comまでご連絡下さい。チケットをご用意させていただきます。是非たくさんの方に見ていただきたいと思っています。誰でもカレでもご連絡お待ちしております。

今日は体調不良でちょっと寝ていました。寝ている間にいわき震度5弱。津波注意報。母に連絡し、無事を確認。無事を確認というよりは、「どんな感じ?」と聞くだけ。「怖かった」とか「びっくりした」とか、何でもいいんだけど、連絡を取り合い、不安を伝えてもらいたいと思って。いわきに住んでいる母の不安はもちろん完全には無理だとしてもなるべく共有して行こうと思っている。地震、津波、原発。いわきが抱えるたくさんの問題。あまりにたくさんで途方に暮れてしまうであろう家族に福島に、少しでも寄り添って行けたらいい。無理を百も承知で。

八がツ

  • 2011/08/02

新しい月が始まった!

新しい月のその初日、すなわち1日はなんとあまりに久しぶりの休み。幸せ過ぎて泣きそう。泣いてる場合じゃない。と、郵便局行ったりドトール行ったりヨーカドー行ったりした。

それから私の現在の心を支えるのが「料理妄想」で、セリフ覚えの集中力が切れたら料理本読んで頭の中を料理妄想で満たしたいがため、高山なおみさんの本などを常に持ち歩いている。時間がなくてなかなか料理ができないけど、頭の中であんなんこんなんと思いを巡らせることが今一番の楽しみなのだ。

で、今日は妄想じゃなくて実技。急にどうしていいかわからなくなる小心者の私。やっぱり女は妄想が一番なんだな。でも実家から送られてきたじゃがいもナスでグラタン、そして我が家の庭で栽培していたゴーヤを初収穫して作ったおひたしが素晴らしく美味しくて、これはもちろん節電のための「グリーンカーテン」であるところのゴーヤなわけで、私が福島県出身であることはこのゴーヤを育てはじめる大きな源にもなっているので、それはそれは美味しく感じられ、私はいつでも故郷を思っているよと、遠い沖縄の野菜に語りかけながら食べた。

明日からまた稽古、稽古。稽古が出来る幸せ、私にとって唯一無二の人、矢内原美邦さんと一緒に舞台が出来る幸せをかみしめている。私もミクニさんと一緒に新しい地平に行けるように頑張る。あ、あと山本くんと将一朗に助けてもらう。二人に迷惑かけていく。公演終わったら謝る。そんなこんなであと一ヶ月かあ。皆さん見に来て下さい。この舞台はすごく面白くなる。確信しています。「前向き!タイモン」

休みが終わる。

11

  • 2011/05/11

震災から2ヶ月です。あの日からいくつかのことが大きく変化しました。これからもどんどん変化していくでしょう。

家族、友人、映画、小説、演劇、テレビ、仕事、音楽、笑い、食べ物、たくさんの人やものに支えられてきた2ヶ月でした。感謝の気持ちをどこで発したらいいかわかりませんが、確実に皆のおかげです。

今後も私の実家である福島のことを大切にしていきます。福島に祈りが通じますように。皆と一緒に生きていけますように。考えつづけます。

これからも皆さんどうぞよろしくお願いします。ちなみにこの写真は4月にいわきの実家でとった写真。

ゴールデン

  • 2011/05/04

家族旅行に行ってきました。

父の運転で飛騨高山まで。父の計画に則り、父の腹の具合に合わせて食事をし、父が撮りたいペースで記念撮影しという旅です。我が家では子どもの頃からこんな旅でした。父のリーダーシップによって楽しい旅になるのです。

子どもの頃、親戚一同で青森のねぶた祭りを観に行こうということになり、父が宿の手配やスケジュールを組むことになったときがあります。父はその時手書きで「旅のしおり」を作りました。そこには起床時間、各家庭が持って来る手作りお弁当のメニュー、高速道路SAの予想通過時間、各地での集合時間、ねぶた祭りの歴史など、こと細かに書かれていて唖然とした記憶があります。「カサギ家、唐揚げ、魚肉ソーセージ5本、おにぎり10個担当」とか、「〜サービスエリアにてトイレ休憩」とか。唖然の次には大爆笑。姉と「(父は)やっぱすごいな」と話したものです。

今回はさすがにしおりはなかったものの、父の独断で夜中に東京をスタートし早朝岐阜のSAでの朝食は、母が持参した食パンに切ったトマトとハムを挟んで食べるオープンサンドウイッチ、気温は2度。ベンチとテーブルがあったので外で白い息を吐きながら食べました。一回の食事に全身全霊を傾けるといっても過言ではない父は「チーズがない(持参していない)のでひと味足りないなあ」と残念がり、それを受けて「あら失礼しました」と流す母。何百回も見て来た我が家の光景。

そこから2日間、素晴らしい景色や山の色、飛騨高山の町並みなどを眺めました。両親と旅行するのは思えば10年ぶりぐらいです。父のペース、父の話を聞く車中、父の食欲など久しぶりに味わい、いろんなことを思いました。懐かしい気持ちにもなりました。父ギャグも炸裂し、何というか身体が楽になったというか、やはり一生この二人の子どもなんだと再認識し、深刻さから少し離れることができたというか、生き返った気分です。

私たちの実家は福島県いわき市です。例え住居を移してもそれに変わりはありません。この震災で被災し、余震におびえ、放射能汚染におびえながらこれからの人生を生きて行かなければいけません。今いわきに住んでいる親戚や知人達も表向き普通に生活してますが、心の中で不安と戦い、日々決断を迫られ、憤りを何処にぶつけていいかわからず、報道に傷つき、でも毎日を元気に生きています。こんな張りつめた状態を我々は今後何十年も受け入れていかねばいけないのです。その中で私ができることはまず父と母を守ることだと思っています。そしてそこから震える福島のために何ができるのか考えていこうと思います。それは今を生きる私たちの義務なんだと思います(これは決して私個人の義務というわけではなく、今を生きる私たち皆という意味です)。苦しみも不安も背負ったまま、福島県は世界で一番タフで美しい土地になると信じて。むしろ福島今相当輝いてるぜと思われるような文化を、運動を、命を私はあきらめないで考え続けたい。

それにしても高速道路1日1000円ってすごい。高井戸から白川郷まで1000円だぜ?!

いわき日記中断して、現在

  • 2011/04/15

いわき日記がずいぶん長引いてしまいました。そしてまだ終わってません。今は東京です。あ、間違えた。神奈川です!両親と一緒に帰って来ました。

あれからまた状況が変わりました。4月11日、震災から1ヶ月で大きな余震があり、いわきはまた断水したようです。今日現在、わたしの実家の地区はまだ止まっているみたい。住んでいる皆さん、大丈夫でしょうか。心配です。

そして原発の状況が日々変わって行きます。毎日ニュースをみて一喜一憂するしかありません。

わたしの頭の中は今遠い福島にあります。風景、食べ物、親戚、家、思い出があります。もちろんわたしは引っ越しが多かったので(仙台、柏、東京と引っ越しを繰り返しています)福島が思い出の全てではないけれど大切なひとつであることには間違いないし、父と母が育ち私が生まれ祖父祖母が生きて死んだ街です。

その場所が今失われつつあって、私は正直途方に暮れているのだと思う。でも、希望だってもちろん失っていない。私、いつか福島県浜通りで芝居がしたくて、それで「劇団浜通り」とツイッターでつぶやいたらたくさんの方々が反応してくれて、今や劇団浜通りの笠木泉として認識されている時も。すごいね、ツイッターってやつはさ。ツイッターに助けられるし、嫌な情報もたくさんあるけど、やっぱりありがたいことの方が多かったな。

今日は寝ます。おやす。

3/25

  • 2011/03/25

この現在を引き受ける勇気を持とうと考えています。

私たちが享受した「明るい東京」はこれから少しずつ変化して行くだろう。「暗い東京」「不便な東京」になるかもしれない。経済は縮小するかもしれない。それを引き受けなければならないところにいよいよ来たんじゃないかなって思っています。静かに祈る為に、自戒を込めて、私はそれを引き受けようと思う。そして福島県が本当の意味で復興するまであと何年かかるかわからないという事実を少しずつ受け入れ、ゆっくりと共に再生していく根気を持とうと思います。

今はただ、自分の実家が恋しいです。海も土も訛りも風も魚も野菜も静かな時間も。そう思う私はやっぱり自分が頑張らなければいけない。いいこと言えない、人を励ませない、迷うならばとことん考えつづけなければいけない。

書いては消し書いては消し、ですが残った言葉だけでもここに載せて行こうと思います。読んで下さっている皆さんありがとう。

3/22

  • 2011/03/24

いわきとか仙台とか早く行きたいな。そんでままどおるとか萩の月とか食べたいです(どっちも最高だよ)。とりあえず今年は友人のイガリくん(山形チェリーズ所属)と私(いわきハワイアンズ所属)仙台観光に行こうと思っています。

私は35歳。あと生きてもどのくらいかわからないけど、お水はしばらく買いません。お水は妊婦の方や赤ちゃんのいる方に。子どもは未来です。希望です。今回それが身にしみてわかった。子どもを育てる責任があるよ、大人には。でしょう?だったらおばちゃん買い占めなさんな。それは未来への意志ですよ。福島の野菜だって食べますよ。牛乳ないなら豆乳で。パンがないなら作ります。それで問題ありません。どうせならば変わって行くことを恐れないように後悔のないように生きよう、生きてみたいと漫然と思っています。震災前には戻れないのだから。もう未来しかないのだから。胸をはって変わって行こう!

これからの未来、よくなっていきますように。言葉にすると陳腐ですが、祈ります。


チェーホフ「三人姉妹」が読みたい。無性に。本を読もう。がっつり読もう。紙を舐める程読むぞ。読みたいんだ。読ませてくれよ。お願いだよ。ってのはどうでもいいんだけど、何か深く勉強したいなあ。料理も勉強したい。あ、そうだ!おとといは地震によってストップしてたなんとなくヘルシーなお菓子づくり決行しましたよう。

3/21

  • 2011/03/22

日々、テレビでネットでこんなにも福島県のことが。

ツイッターで福島民放(@FKSminpo )をフォローしている。東京でこんなに頻繁に福島の情報を得るということが今までなかったからそのこと自体にまず驚いている。福島に帰省した時の「マルトがさあ」「鹿島街道のさあ」「小名浜のさあ」「薄磯がさあ」「ヨークベニマルがさあ」「高久小学校がさあ」という単語は日常だ。しかし東京でその単語は非日常だった。地震の日までは。

私は今福島/東北の情報とともに生きている。ライフラインはまだ復旧しません。不安に震える人も寒さに凍える人もいるだろう。ただただ祈ることしかできません。

いろんなことを考えてはまた消えて行き、ただ一つ、長い戦いになることはわかりました。そして途方もなく長い時間祈り続けることが必要なのだと。そのためにどのように自分が変わっていかねばならないのかを前向きに圧倒的に前向きに考えたいところです。そしてこれは非常に重要なことなんですが、この場では自分の言葉でなるべく書くように努力します。他人の言葉を使わない。自分の肉体で書く。それが本当に大切なんです。きっと。/ああ、それにしてもちょっと疲れてるかな。メンタル弱いからなあ。しっかりしなくちゃな。マッサージ行こうかなあ!!

3/16-17

  • 2011/03/17

両親に会えました。ご心配をおかけしました。メールを下さった皆様、ありがとうございます。またここで詳細書きたいと思いますが、まずはお礼まで。そして福島県いわき市が孤立している夜に、明日は全てが少しずつ少しでもいい方向に行くように願います。

3月11日によせて

  • 2011/03/14

3月11日の地震と津波で実家が被災しました。福島県いわき市下高久という場所です。いわき市だけではなく福島県の浜通り、宮城県、岩手県が大きな被害。被害という言葉では足りない。

私が育った街、宮城県仙台市若林区。いわき市。映画「パンドラの匣」でお世話になった宮城県南三陸町。あの風景もあのホテルもあのお店もと思うと胸が苦しくなります。テレビで私の思い出の場所が消えてしまったことを知り、何というか、自分の身体が動かなくなりました。関節が痛み、頭がきしみました。私が動けないとか、意味わかんないと思いつつ、家族のことを考えていると、原発のことを考えているともう動けない。情けないです。皆がツイッターでいろいろなことを言っていてどれももっともだと思ったけれど、そこに何かを書き込む程の力もなかった。

しかし私は、私たちは前を向かねばいけないということもわかっている。身体がそう言っているのがわかります。被災した父母は無事でした。家の一歩手前まで津波が押し寄せ、家の前の畑は液状化現象で車が沈んでしまったそうです。しかし父は「キュウリのキュウちゃんが食べたい」とか言っています。すごいっていうかさ、何故そんなものが食べたいんでしょうか。でも、やっぱりこうなったら父にキュウリのキュウちゃんを腹一杯食べてもらいたい。というか、家族の命が失われたかもしれないという時間の孤独を知り、私は初めてキュウリのキュウちゃんの大切さを身体で理解したように思うのです。何言ってんだかという感じですね。

いわき市には劇場があります。アリオス。いつかその舞台に立ってみたいなあと思っていたけど、この震災で私ができることを考えたとき、やはり「演劇」ではないかと思い、もし可能になったらそこで朗読会や舞台ができないだろうかと考えました。もちろん落ち着いて、そんなことが考えられるようになり、アリオスの方が話を聞いて下さったらですが。家族や親戚、街の人、市の人、病院に入院している人、おじいちゃん、おばあちゃん、子ども、私の家族を守ってくれた人、街、家族、いろんなものが輪になって生きて行くんだと、初めて、本当に初めて身を以て感じています。私が(自分で気がつかない程に)大切にしているものが消えてしまったことへの諦めと希望。いわき市の方々が、東北の皆さんがどんなことがあってもこれから生きて行くという力。思ったことがうまく書けているかどうかわかりませんが、私は今神奈川にいて、家族とは土地なのではないかと考えています。土地に育てられ、土地に愛し、ここまで生きて来た。これから何を返すことができるだろう。

亡くなったたくさんの皆さんのご冥福をお祈りします。なじみ深い訛りで話しているであろう被災者の皆様どうかどうか頑張って下さい。心から祈っております。私もまた普通の生活を受け入れて、何が被災者の皆さんに有効な行動になるのか考えて自分のまた新しい時間を作って行きたいと思います。

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